合理化の弊害

合理化や効率化は、いつも何かを犠牲にしてきた。合理的な販売形態は、小売店を犠牲にしてきた。オペレーションの効率化は、対話を犠牲にしてきた。しかし、「犠牲にされてきた」ということは、決して、それが不要であると認識されたことではない。

つまり、「消えてなくなった」ということではない。それは、単に重要でないと位置づけられただけ。一旦、横に置かれたしまったといっていいい。その証拠に、人はネットショップにも人柄を重要視する。

対話による信頼関係も、全く不要になったとは思わない。だから、犠牲になったものは、必ず復活する。それは、進化した形態として、復活する。電子メールも、手紙の復活といえる。eラーニングは、寺子屋の復活といえる。

こうした原点回帰の考え方は、ヘーゲルの弁証法にある「螺旋的発展」で説明されている。つまり、同じところをクルクル回っているようでいて、それは、必ず一段上に進化していっている。

この「螺旋的発展」の考え方は、新しいものが突然変異のごとく生まれないことを表している。そして、進化とは淘汰ばかりではないことを表す。古いものも共存するからこそ、多様性が生まれる。

進化の過程で、古いものが必ず淘汰されるならば、哺乳類への進化の過程にあるバクテリアや爬虫類はいないはずだ。新しいものを先取りしたいならば、まずは、古いものを見つめ、大切にすることだ。

そして、新しいものを受け入れると同時に、古いものも、同じように受け入れていくことが賢明だ。ここ数年、合理化、効率化が推し進められてきた。それによって、経済的な発展も遂げてきた。しかし、これからは、徐々に「失われてきたもの」に光が当たる。

一日中、自然と触れ合うというのはどうだろう。一日中、食べるためではない魚釣りをするというのは、どうだろう。それは、決して合理的ではない。しかし、人間の本能が決して失わないものが、そこにある。

「それって、意味あるの?」「意味が必要なの?」僕達アングラーは、自信を持って、そう応えていい。

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